「長い散歩」作品紹介



企画意図

一人の初老の男と5歳の少女の旅。男は亡き妻への贖罪の念を背負い、少女は自分の置かれた残酷な境遇を生き延びる唯一の術のように、いつも天使の羽を背中にまとっている…。『少女〜an adolescent』(01)、『るにん』(06)と次々に監督作品を発表し、個性派俳優であると同時に映画監督としてのスタンスを固めつつある奥田瑛二。『長い散歩』は、長編3作目にして彼の映画作家としての確かな実力を示す、涙と感動の名作である。

子供や家族をめぐる悲惨な事件が相次いでいる現代社会。その社会のゆがみや心の暗部を逃げることなく抉り出しながら、日本人が本来持っていた優しさや情緒感を見つけ出し、救済されていく魂のファンタジー。天使の羽を身につけた少女と、人生を再生させたい男の心の交流は温かな涙を誘い、観る者の心に爽やかな風を吹き込んでくれる。

物語の主人公、安田松太郎は名古屋のとある高校の校長を勤め上げ、定年退職した。しかし教育者としての厳格さが裏目に出たのか、家庭はうまくいかず、アルコール依存症の妻が死に、一人娘は父を憎んでいる。妻の葬式を済ませた後、松太郎は家を引き払い、何かを清算するかのように質素なアパートに移り住む。その部屋の壁一つ隔てたところに、母親に虐待されている少女、幸(サチ)の世界があった。松太郎が幸を救い出し、心を閉ざした彼女の手を取り、旅に出るまでに多くの時間はかからなかった。初めて人間らしい愛情に触れ、頑なな心を次第に開いていく幸。松太郎にとってそれは亡き妻と自分の人生に対する贖罪の旅でもあった。しかし、同時に松太郎は少女誘拐犯として指名手配されていた。捜査の網の目は、彼らを次第に追い詰めていく…。

半世紀も年齢の違う二人が目指す旅の終点のユートピア。白い雲がぽっかりと浮かび、鳥が大空をのびやかに舞っているという、男の遠い記憶のなかにある山の頂を目指す二人は、果たしてそこに行き着けるのだろうか?

安田松太郎を演じる俳優、緒形拳の演技が素晴らしい。信念を持って生き抜いた厳格な男であったが故に、老いて人生を振り返ったときに自分に問いかける悔恨の情のつらさを、抑制された演技でみごとに表現している。そして少女、幸との不器用な交流のなかで、自分の心のしこりが次第に溶け出し、癒されていく、心温まる名演技。基本的に順撮りでシーンを撮影していく奥田監督の意図の通り、物語が進むにつれ緒形拳が次第に役に没頭していく様は、彼の感情のドキュメンタリーとして映画に生命を与え、感動させる。かつて一度だけCMの仕事で緒形拳と一緒に仕事をしたことがあるという奥田監督が、この名優で一本の映画を撮りたいと決意し、彼を念頭に置いて用意された企画であるだけに、本作はまさに俳優、緒形拳の近年の代表作と言える。

薄幸の少女、幸役の杉浦花菜は、オーディションによって多数の候補者のなかから選ばれた天才的な子役である。本作の前に演技の経験はないが、母親に虐待され、心を閉ざした少女という難しい役柄を見事に演じきった。まだ母親との関係が健全だった頃に幼稚園のお遊戯で演じた「天使のパンツ」の小道具であった天使の羽根。すでに擦り切れたその羽根をいつも身につけて過ごしている少女の哀しみと希望。幸の存在感が本作にファンタジーに満ちた優しさを与えている。

自分自身が母親に愛されたことがなかった故に、自分の娘にも同じように振舞っているという母親横山真由美役に、高岡早紀。一人の女性の哀しさを体当たりの演技で表現している。松太郎と幸の旅の途中で出会う青年ワタル役には、松田翔太。本作で映画俳優に目覚めたと語るほど奥田監督の演出にインスパイアされ、ピュアなオーラをまとった存在感を醸し出している。奥田瑛二自身は、今回は監督として演出に集中し、松太郎を誘拐事件の犯人として追い詰める刑事役として、物語を外から見つめるポジションを取っている。

幼児虐待という社会問題は現在も根深く存在し、親子間の問題であるが故、福祉の介入が難しいデリケートな面も持っている。脚本を書き上げるにあたって、多くの事例を研究し、児童福祉関係の団体を取材している。原案は、奥田瑛二自身によるもので、妻の安藤和津が中心となり、長女であり今回の助監督を務めた安藤桃子、次女の安藤サクラのアイデアを取り入れながら、脚本家山室有紀子の協力を得、執筆していった。桃山さくらのクレジットは、三人の頭文字(山は、山ノ神(妻))。

撮影は奥田組の常連、石井浩一。銀残しの現像を計算し、岐阜の山中、名古屋のロケーションを美しい色調で見事にカメラに収めている。松太郎の心と響きあうような静謐な空気感を劇伴のピアノ曲として作曲しているのは、稲本響。その澄んだ音色が映画の全体のトーンを生み出している。そして物語のエンディング・テーマには、UAが歌う井上陽水の名曲「傘がない」。UAの歌声が物語の感動の余韻を、新鮮に引き継いでいる。

ストーリー

定年退職するまで名古屋の高校の校長を勤めてきた安田松太郎は、妻を亡くし、一人娘の亜希子に告げる。
「この家はお前にやる。俺は出て行くから、お前、戻って一人で住むといいだろう」
娘は応える。
「相変わらず押し付けがましいのね。ありがとうって言うとでも思ったの? この家に住むのが怖いんでしょう。…人殺し…」
松太郎は、家庭の和をうまく築くことのできない男だった。自分の出世こそが家族の幸せと思い込み、万引きで補導された娘を理由も聞かずに殴りつけるような厳格すぎる性分の松太郎は、妻をアルコール依存症に陥らせ、娘の憎しみをかっていた。

身の回りの最低限の生活道具を荷造りし、移り住んだ場所は、愛知県の片隅にある小さな二階建てのアパートの一室。彼は少ないダンボール箱の荷を解き、妻の位牌を本棚の上に飾る。愛読書の詩を流し読み、その本のページの間に挟まっていた写真に目を留める。それはかつてまだ家族の仲がいいときに行ったどこかの山の頂で、白い雲がぽっかり浮かび、鳥が空を舞っているのどかな写真。写真の裏には自筆の詩。
「おーい君、おーい天使、おーい青い空、松太郎」
自分の過去を清算するような松太郎の質素な一人暮らしが始まった。
隣室には水商売風の女が、幼い一人娘と暮らしていた。松太郎は、ボール紙で作った擦り切れた天使の羽根を背中につけたその少女をよく見かけていた。彼女は幼稚園にも行かず、いつもアパートの外で、一人ぼっちで遠くの景色を眺めていた。母親が夜の仕事に出かける時、彼女が娘に小銭を投げつける様子も目にしていた。少女はその金でメロンパンを買い、空腹を満たしていた。

ある夜、男と酔って帰宅した母親は、情事を始めると、娘を怒鳴って夜の戸外に追い出した。日ごろの隣室の物音から母親による娘の虐待を知った松太郎は、少女への同情心を募らせながらも、過去に自分が娘にした仕打ちを思い返し、自責の念に苦しんでもいた。松太郎はある日、少女の後をつけ、彼女の秘密の隠れ家をつきとめる。そこは大きな樹木の根の隙間に、万引きした絵本やおもちゃを溜め込んだ小さな空間で、少女はそこでは安心して遊び、眠ることができるのだった。そこで松太郎は少女とささやかな交流を始める。
運命の日はほどなくしてやってきた。ある日、松太郎は隣室で少女をからかっていた母親の情夫、水口を青竹の剣で叩きのめし、彼女を救った。そして松太郎は彼女に静かに語りかける。
「おじいちゃんといっしょに行くか。……青い空見に行こう。綿飴みたいな雲が浮かんで、白い鳥が飛んでる」と。
虐待され続けた少女は、他人とのコミュニケーションができなくなっていた。全てを拒絶したままの少女を連れ、松太郎は旅に出た。めざす場所はおのずと決まっていた。昔、家族と行ったあの山の頂、彼にとっての心のユートピアである。こうして心を頑なに閉ざした少女と、妻への贖罪の念を背負った男の旅が始まった。松太郎に対し、虐待によるトラウマで心を閉ざし何事にも反抗的な少女、しかし、旅のなにげない交流のなかで、少しずつ松太郎の想いを感じ始め心を開いていった。ある夜、彼女は突然、自分の名を松太郎に告げた。少女の名前は幸(サチ)。

娘の姿が見えなくなった二日後、幸の母親は警察に届け出た。同じ時にいなくなった隣人の松太郎が誘拐犯人と特定されるまでにさほど時間はかからなかった。
ひと気のない単線で旅を続ける途中、ふたりはバックパッカーの青年に出会う。ワタルと名乗る青年はしばしの間、彼らと旅を続ける。幸の心をつかみ、彼女が笑顔を見せるほどになったことに対し、安田はワタルに礼を言う。しかし、そんな束の間の安らぎは長くは続かなかった。誰知らず深く心を病んでいたワタルは、ある朝、山の湖の前で自ら命を絶つ。

深い悲しみを抱き、安田は幸をつれてその場を去らざるを得なかった。その事件が、安田と幸の捜査の網の目をいっきに狭めることになった。果たして二人は、目的の地へと辿り着けるのだろうか?





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